原風景を見に行ったら黒歴史と出会った
今、趣味活動にしてる廃虚・廃線跡・妙なスポットへの訪問をやってますが、元々は「途中下車の旅・無名観光地巡り・ツーリング」の派生としてやってます。
その中で廃虚への関心の原点が、遊びに行ってた公園の隣にあった廃病院なのです。
その建物は一部が使われてたとはいえ、ほとんどが廃病院。
中は写真集にある光景そのもの。
しかも建物以外の敷地は雑木林で薄暗く、所々に小屋のような建物があり、消防用の緑色した池がありました。
で、玄関と思われるところはカーテンで中は見えず、大火災があったという噂など、曰くありすぎの建物でした。
そんなミステリーな物件でしたから、廃虚マニアでなくても子供の肝試しというか探検心を誘うには十分でした。
もちろん金網で囲ってあって敷地には入れませんでした。
それでも、友達と中に潜り込んで肝試しをしたり、敷地を通り抜けたりしてました。
その建物は、「東京府立清瀬病院」という結核の療養所だったようです。
小学3年生の副読本に在りし日の写真が載ってたので、画像検索しましたがありませんでした。
前の様子は記憶を頼りに書きました。
今は、全て取り壊されて、広い敷地を生かし国立の大学校になってます。
昔の面影はまったくなくなって、石碑だけが存在したことを語っています。
私が子供時代を過ごしたその清瀬という土地は、大正時代には何もない田舎だったのでしょう。
だから空気が綺麗だったので当時は「不治の病」と呼ばれ恐れられていた、結核専門の病院が建てられたのでしょう。
私が住んでいた当時も条例で、大気汚染を防止するため工場を規制してました。
今も「結核研究所付属病院」があり、清瀬病院は移転して「国立療養所東京病院」となってます。
他にも大小、キリスト教系など、結核を中心とした病院が南のエリアの中に集中して建てられていました。
その数は多い時で世界ランクに入る数だったらしいです。
そのためその中を通って東村山に抜ける道は「病院街通り」と呼ばれ、「入院者の安眠のため」夜間は自動車通行禁止になっていました。
そしてその道は病院の環境のためか雑木林の中を抜ける、昼間でも独特な空気を持つ道でした。
そんなDeepなエリアだったのです。
記憶が曖昧なので35年ぶりかに行ってみようと思い、資料として、Deep専門サイト、
「東京DEEP案内・清瀬編」
を一読して現地へ。勝手知ったるですがまったく変わっていました。
所々に歴史を垣間見せるようなものはありましたが。
現地に立ってみると、サイトの人がいつ取材したのかわかりませんが、鬱蒼とした雑木林の「病院街」の記憶とはまったく様変わりしてました。
この国の小児医療後退を端的に表す、小児病院が閉鎖されてたり、病院も近代的な明るい雰囲気に変わってました。
サイトの記述と記憶の奥にあるような、マニアックな物件はほとんどななくなってました。
「病院街」は明るい住宅地に変わっていたのです。
とりあえず、何かめぼしいものはないかと道を歩いて行くと、多摩全生園の敷地に「国立ハンセン病資料館」が。
そうです、そこは結核とともに当時恐れられていた「ハンセン病」の隔離療養所です。
ちなみにこの「ハンセン病」、細菌による皮膚病に分類され、今はいい薬がある上に極めて感染力も発病力も弱いそうです。
(現在は発生が年に一人いるかくらいだそうです)
しかし、当時の一般人は今のように栄養状態や免疫力の弱さ、衛生面の問題があったのは歴史で習ったとおり。
コレラやチフスのようなパンデミックは起きなかったものの、原因がわからない上に悪化した場合、患部の変形や失明など極めて重篤な後遺症が起きるのですから「奇病」と思われ恐れられ、それが隔離や差別につながったのでした。
なので全国に点々とある療養所は、容易に行けないような場所にあるんだそうです。
まあ、今は怖くないとはいえ逆に言えば、知らない・診断できる医師がいないという逆の問題がありそうですが。
そして人権無視の「らい予防法」が作られ、患者を見つけたら療養所へ隔離。
と、いうか収容所へ入れると行ったほうが正しいと思います。
この辺のことを当時の資料・遺跡、体験者の話で説明してる施設です。
その中では当時の刑務所とどっちが非人道的なんだと思うくらいのレベル。
ここまでするのか?
と、思わされます。もちろん歴史教科書や資料集には載ってません。
(館内は撮影禁止なのでPHはありません)
その人権無視の過去の遺物のような「らい予防法」は平成に廃止されるまで生きていたのです。
まさに黒歴史。
興味深い、行ってみたい方は、
「国立ハンセン病資料館」
もちろん今は元患者の救済に変わったので、現在の全生園は住人の高齢化で今でいう「サ高住」に近い療養施設に変わってます。
この施設、近道になったのでよく自転車で中を通り抜けてました。
もちろんどんなところなのかわからずに。
その頃もそうでしたが、今でも中が一つの「街」のようですが、外の喧騒がまったく入らない静寂の場所でした。
住人も減って長屋は廃墟になっているものもありました。
まるで時間が止まっているような錯覚を覚えます。
今は園内の遺跡などをめぐるパンフがあって、資料館で頼めばもらって中を回ってみることができます。
昔と変わってないのはもしかしたらここだけかもしれません。
突撃の最後がお勉強になってしまいました。
バスで清瀬駅まで戻って、遅い食事をとって帰りました。